ビートルズへの想い
 私(林)がビートルズの音楽に初めて触れたのは、13才の時。
その時私は病気をして2ヶ月程入院していました。同じ病室に入院していた20代のおにいさんがいつもラジ
カセで何か聞いていました。イヤホンで聞いていたので何を聞いているのかわかりませんでした。
その頃は歌謡曲全盛で、私もご多分に漏れず、山口百恵などを聞いていました。(その前は天地真理、完全
なミーハーだね)
そのお兄さんが、ちょっと聞いてみるかとカセットを貸してくれました。その時流れてきたのがLOVE MEDO
でした。一瞬でその曲のとりこになり、毎日お兄さんにねだって聞かせてもらいました。
なんとそのテープはすべてLOVE ME DOで延々とLOVE ME DOだけが流れるというものすごいテープ
でした。他のビートルズのテープも聞かせてもらったんですけど、LOVE ME DO以外の曲は覚えていませ
ん。(あたりまえか?)
 退院してからもその曲が耳から離れず、4才上の姉にビートルズのことを、聞くと、姉は洋楽好きで
シカゴというバンドに夢中でしたが、(日曜日になると朝早くからガンガンシカゴがステレオから流れてきて
私は今でもシカゴがラジオなどから流れてくると体が反応してしまいます。)もちろんビートルズの事も知って
いて「もう解散しているよ」と教えてくれました。姉はLET IT BEのシングル版を持っていて、さっそく聞か
せてくれました。(LET IT BEと歌う部分が私はどうしてもエルビーとしか聞こえず、その頃エルビーと言う
乳飲料があって、この曲はビートルズがエルビーのために作った曲だと、かってに思っていました。(すごい
思い込み。今考えると)
 その頃は貸しレコード屋とかはまだなく、聞きたければレコードを買うか、ラジオでいつ流れるかわからない
曲を待つかしかビートルズを聞くすべはありませんでした。当然小遣いはそんなに多くなく、よく姉にシカゴ
のレコードを買うお金で、ビートルズのアルバムを買ってくれとお願いしていました。(無理でしたが)
 高校生になってやっとアルバイトとかで自分のお金が使えるようになって、ベスト版、いわゆる赤版、青版
を買って4枚のレコードをむさぼるように聞きました。それからサージェントペパーズ、リボルバー、ホワイト
アルバムなど次々に買いました。その頃の洋楽はロック全盛期で、ディープパープル、ボストン、イーグルス
プログレのELP、イエスなどなど、まさに高校3年間は洋楽に狂っていました。(小遣いはほとんどレコード
に消えたなー)色々聞いたけどビートルズはやっぱり別格でした。個人的には、初期の曲もいいですけど
どちらかと言うと中期から後期にかけて、リボルバーとかサージェントペパーズなどが私は好きです。(おま
えの意見は聞いていない)そうですよね、ビートルズはすべて良いのです。
ホワイトアルバムのマザーネイチャーズサンなどジョンデンバーの曲としてすごく好きだったんですけど、ホワ
イトアルバムを聞いて、これもビートルズの曲だったんだと、あらためてその偉大さを知りました。
 そして高校3年私が18才のときジョンが突然の凶弾に倒れてしまいました。車の中にいて、ラジオから
そのニュースが流れてきました。ものすごいショックで次の日学校を休んで、1日中家でビートルズを聞いて
いました。
 今39才になって私の上の子供(12才)がお父さんビートルズって知ってる?と聞いてきました。
私はここぞとばかりに嬉々として昔のレコードを全部引っ張り出し、部屋を締め切ってレコードをかけまし
た。(息子は2〜3曲であきてしまって部屋を出ていってしまいましたが)
 私はそれから延々夜が明けるまでビートルズを久しぶりに聞いて郷愁に帰ると同時に、あらためて色あせ
ないビートルズの音楽の偉大さ、ジョンの死によってもう4人のビートルズを見ることは出来ないんだという
残念さを痛感しました。
2001年12月
JOHN LENNON   
ジョンは、第2次世界大戦中の1940年10月9日、リヴァプールのオックスフォード通りにある産院で
生まれた。ドイツ軍の猛烈な空襲のさなかに、爆撃の轟音をはねかえすように元気な産声を上げてこの
世へ送り出された。
 父のフレッドは船の給仕人をしており、ジョンの誕生の時も遠い戦場にいた。母の姉のミミがウィンスト
ン・チャーチル首相にあやかるようにジョン・ウィンストン・レノンと名づけた。彼の名には、英国人としての
愛国心がこめられている。
 ミミおばさんは、ジョンの誕生を祝福し、母のジュリアが「私は生んだだけね」 というくらい、こまめに世
話をやいた。
 あたたかい祝福を受けたジョンだったが、父母の愛には薄い子供だった。彼が1才半の時、つつましや
かではあったが安穏な生活に思いもかけぬ破局が訪れた。父のフレッドが船を抜け出し行方不明になっ
たのである。回漕事務所へ毎月の送金を受け取りに行ったジュリアは、このことを知らされて絶句した。
フレッドとジュリアの結婚生活は、事実上この事件で終止符をうたれた。
 ジョンは5才の時に父と数週間暮らした事がある。しかし、その後は会っていない。「ぼくはすぐに父を忘
れてしまった。父は死んだのと同じことだった」
 まもなくジョンは母とも別れなければならなくなった。ジュリアが別の男の所へ去ったのである。ジョンは
ミミおばさんの家に引き取られた。ミミの家はリヴァプールの郊外にあり、家のまわりの石垣には色とりど
りの花々が咲きみだれ、庭には年輪をほこるリンゴの樹がある、小さいながらも快適な家だった。ジョンは
この家で、心あたたかいミミおばさんとジョージおじさんに、実の息子のように育てられた。
 だが、ジョンの心から母は決して消えなかった。「いつも母のことを考えていた・・・・・」と、彼は回想して
いる。ジュリアはたびたびミミの家にジョンを訪れたが、「なぜママといっしょに暮らせないの?」彼はミミに
たずねては困らせた。ミミは詳しい事は話さず「ママは遠いところに住んでいるからいっしょに暮らせないの
よ」などと答えていた。母が10マイルと離れていない所に住んでいることを知ったのは、かなり大きなって
からだった。
 5才の時、ジョンはダブデイル小学校に入学した。ミミの話によると、ジョンは近所の子供たちの餓鬼大将
で、小学校でも喧嘩ばかりしていたという。だが頭は良かった。読み書きはクラスの誰よりも早く覚えた。
 この頃すでに、ジョンの豊かな才能の萌芽がみられる。家にいる時には、物語や詩やイラストを書いて過
ごしていた彼は、7才になると、自分の本を書きはじめた。その本には、自作のイラスト、小咄、漫画などが
はいっていた。
 小学校時代のジョンに、明晰な理論家の彼から想像できない子供っぽいエピソードがある。10才の時、
ジョンはメガネをかけるようになった。友達は彼に”4つ目”というニック・ネームをつけた。これを嫌ったジョン
は、意地になってメガネをはずして歩いて、何度も柱に頭をぶつけたというのである。
 12才の時、ジョンはクオーリー・バンク中学に入学した。ここでもジョンは喧嘩ばかりしていた。そのうえ、
学校の規律や義務を嫌い、公然と反抗した。成績は下がる一方で、クラスの下位に落ちてしまった。
 「見込みなし。他の生徒の勉強の邪魔になっている。」成績簿にはこう書かれていた。しかしジョンは絵を
書くのは上手で、美術だけは点が良かった。中学時代の校長は「これは美術学校に行かせるよりほかはな
いと思った」と述懐している
 1954年、ジョンが14才の時、ビル・ヘイリーとその楽団の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がイギリス全土
を席巻し、ラジオでこの曲を聞いたジョンは興奮した。彼はポップ・ミュージックに強く惹かれていった。そし
て、プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」が登場すると、ジョンの音楽への傾斜は頂点に達した。
 「エルヴィス以前にぼくに影響を与えたものはなんにもない」というほど、強烈に彼の心を揺さぶった。
初期のケンタッキー・ミンストレルズのメンバーだった祖父や、歌が好きだった母から受け継いだ
血が生き生きと脈動しはじめたといえるだろう。
 彼は矢も楯もたまらずジュリアにねだって、ギターを買ってもらった。ジュリアからコードを習うと、
早速学校でグループを作った。グループ名は学校の名をもじって”クオリーメン”と名づけられた。
最年長のジョンがリーダーとなり、エリック・ドルフィスがギター、ピート・ショットンがウォッシュボード
、レン・ギャリーとコリン・ハンソンがドラム、ロッドがバンジョーという編成だった。メンバーはいずれも
プレスリーを意識して、髪を高く盛り上げ、うしろはピッタリと撫でつけていた。
 腕前は素人に毛の生えた程度でお世辞にもうまいバンドとは言えなかったが、結婚式やパーティー
などで演奏していた。しかし、メンバーには気分屋が多く、絶えずメンバーが入れ替わり、
演奏活動はたびたび停止する状態だった。
 1956年6月15日、ジョンはウールトン教会のパーティーでポールとめぐり逢った。
★リヴァプールの街並み